Google
2008年8月1日更新
7月2日
<ダンスコンペ事情その2>
 コンペというシステムが、ダンスの隆盛に一役も二役も買っているのは評価に値する。だがその一方で、弊害もある。観客の姿勢については<その1>で書いたが、今回はダンスの作り手と制作者の意識に関して。
 
 コンペは、大抵が10〜30分程度の複数の作品を一晩で上演する。つまり「小品」にならざるを得ない。となれば当然、劇場での仕込みや照明作りも、各作品の割当が2時間程度になり、やれることは限られてくる。要するに小粒になる。「他の機会に、それぞれの振付家が大粒の作品を作ればいい」のだが、作る側としては、劇場を抑えたりスタッフの都合をつけたりチケット販売やメディアへの売り込みなど、すべての制作業務を主催者が肩代わりしてくれるコンペというシステムに、つい頼ってしまうという現実がある。世界観や芸術観という自らの指針に思いめぐらすことは後回しで「○○コンクールは○月○日が応募締め切りだけど、何かやることないかな?」などと、本末転倒な考えに陥ってしまうのだ。
 
 これは「マニュアルがないと動けない」という、まさに現代社会の悪弊に似ている。用意された枠、誰かのお膳立てがないと、何もできない。自らの手を汚しながらコトを起こすことから逃げている。

 企業、商店、学校、ダンスなど、あらゆる組織で「システム」が機能すればするほど、「人間力」は低下するのだ。

 プロデューサーや制作側の、善かれと思って起こす企画が、結果的に芸術家を搾取し、消費の対象とし、息の長い活動の芽を摘んでしまっている。これを僕は制作者・劇場関係者の「見つけ出したい症候群」と呼んでいる。

 「どうも最近は小粒の作品ばかりで、、、」などと嘆く舞踊関係者は多い。でも実はその本人が原因を作っている場合もあるのだ。「規格はずれのとんでもないモノ」は、システムからは生まれない。

 システムは両刃の剣だ。運用を間違えると大変なことになる。


7月13日
 アリス終了。疲れたというか、楽しかったというか、久しぶりだったというか、まあいろいろだった。それ以上の感想が、まだ出て来ない。


7月14日
 東京の夏音楽祭の企画のひとつ、サハラ砂漠のトゥアレグ族を招いた音楽デモンストレーションを含んだシンポジウムに出演。テーマは「心の自由をキーワードに語り合う」。
 詳細は述べないが、伊藤キムがこれに参加する必要性は感じなかった。


7月20、21日
 神戸市の神戸野田高校でワークショップ。4月の愛媛大学に続く、ワークショップ・デリの企画。
 神戸、暑かったです。も、とにかく暑かった。泊まったホテルが須磨海水浴場に面していて、水着のオンパレード。
| - | 15:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
2008年7月15日更新
6月15日

 愛知・岡崎市の光が丘女子高校ダンス部。9月の作品発表に向け、出演メンバー選考を兼ねたワークショップの、今日は最終日。1〜3年生総勢70名以上の部員から20数名を選ぶ。4月から続いた計4回のワークショップでは、毎回感心の連続で、創作意欲をかき立てられる。礼儀はもちろん、やる気に加え、図々しさも兼ね備えた女子高生たち。9月が楽しみ。

6月24日

 ミニコミ紙企画で、以前住んでいた武蔵小金井近辺を訪れる。ほぼ3年ぶり。駅前の様子、ガラリと。

7月1日

<ダンスコンペ事情その1> 
 トヨタアワードの審査員。
 「池に網を突っ込んで、かかったオタマジャクシを陸に上げ、カエルになるのを待つ」。ダンス界の昨今のコンペ事情を説明するなら、こんなところだろう。
 最近はお笑いの世界でもM-1グランプリなど、ダンス同様にコンペがいくつか出現してきている。ダンスにしろお笑いにしろ、以前は自然発生的に才能が現れ、自力で伸びて実績を上げてきた。オタマジャクシは自分で陸に上がってカエルになっていたのだ。

 だが今はコンペという「システム」が機能し、新たな「ダンス鑑賞機会」となってダンス市場を沸き立たせている。「一度にいろんなものが見られる、昨今のダンス事情が一目で見渡せる」という、観客にとってはおいしいシステムだ。まだまだマイナーなダンス界そのものをよりメジャーに引き上げる方法のひとつとして、大きな役割を果たしている。

 審査翌日の公演後のロビーで、ある舞踊関係者が「鈴木ユキオは、どの作品も同じで、そのスタイルは昔から多くの人にやり尽くされたもの。新しい振付家の発掘なのに、ああいうものを評価する審査員って、、、云々」と、うろ覚えで正確ではないかもしれないがこんな風に審査批判をしていた。それに対し僕は「いや、彼は自分をちゃんと見つめて、その結果強い作品になった。そういう点は評価に値する」と反論した。

 僕の考えは「次世代の振付家とは、必ずしも斬新な手法をひっさげた人だとは限らない」。既存のスタイルであっても、キチンと自分自身に向き合って十分に掘り下げる姿勢があり、それが作品として昇華されているか? 同時に、小さな自分世界にとどまらずに客観性・普遍性を持ち合わせているか? そこが大事。もちろん、上記した舞踊関係者も同様に考えているかもしれない。とすればあとは好みの問題だ。だって実際僕はあの作品を見て感動したのだから、審査員として評価して当然。

 観客は飽きっぽい。だから常に「新しい表現」を求める。しかしそれはややもすると「芸術家の消費」につながる。コンペというシステムが機能すればするほど、観客は「そのシステムに引っかかるかどうか?」で芸術家を判断しかねない。ダンスを見たことのない観客にとっては、手っ取り早いのかもしれないが。
| - | 15:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
2008年6月15日更新
6月5日

 最近は、じゅんじゅんリハで毎日のように桜木町の急な坂スタジオ通い。ダンサー気分を味わっている。この春まで1年、未来メンバーの振付けを踊ってきたが、やはり当然ながら、そこで味わった気分とは大きく違う。
 じゅんじゅんリハの場合、基本的に彼の振りを踊るのだが、それをやってみるとしっくりこないことも多く、「う〜んキムさんらしさが出て来ないですねぇ。キムさんのやりやすいように、ちょっと手を加えてみてください」という指示がたまに出る。
 昨年の未来ではこれはほとんどなかった。どちらが良い悪いの話ではないが、
伊藤キムくらいの色の強いダンサーになると、未来スタイルは振り付ける側にも伊藤キム側にも、無理があろう。でもその困難を乗り越えていい方法が生まれ、面白いものができたならそれは素晴らしいことだし、僕もそれを望んでいるのだが。
 
6月6日

 続き。じゅんじゅん作品では、振付けされる身ではあるが、創作の現場では「このパートは○○のイメージでちょっと作ってみてください」「ここはせわしない動きをモチーフに自分で動きを発展させていってもらえますか?」という具合に、振付けを任されることもある。ダンスの世界では「振付家はどこまでが振付家で、ダンサーはどこまでがダンサーか?」という問いが常に頭をもたげている。
 自分で創作はしない、とはいうものの、ダンサーというのは振付けの片棒を担ぐ人であって、その加減はもちろん人にもよる。
 そうやって自分から出て来た振りは、これまでとなんら変わりないもので、「あぁ、またこれか、、、」とガッカリする。結局自分からは逃れられないのか、と。
 自分を改革するということ。これほどしんどい作業はない。

6月8日

 ジジ臭い話になって恐縮だが、腰が痛い。左足裏が痛い。首が、左脇の下が、ああ痛い。僕はどっちかと言えばケガをしないほうだが、身体は決して強くはない。特に最近は仕事が重なって、稽古場と稽古場の移動も多いのでなかなか大変だ。
 長年、身体のケアをきちんとやってきたわけではないので、年齢とともに身体のあちこちに不具合が出はじめている。「えっ、なんでこんなところが痛むの?」と驚くことあまた。知らない客が突然ノックもなしに、しかも裏口から上がり込んできたような感じ。
 カラダの意外なところを意識することになるのだ。でも、これはこれで新たなカラダの発見。よしとする。痛いけど。

| - | 16:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
| 1/81PAGES | >>