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キムは今・・・写真編 2月前半
2006年2月7日

アッシジ市街

アッシジ市街

聖フランチェスコ教会

聖フランチェスコ教会

2006年2月12日

ニース パレード1

ニース パレード1

ニース パレード2

ニース パレード2

 ニース パレード3

ニース パレード3

 ニース パレード4

ニース パレード4

 ニース パレード5

ニース パレード5

| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
「世界が展示室」特別編
「コインの使者」
 いままで書こうかどうか迷っていたことがあった。でも自分だけで抱えるのももったいないと思い、書くことにする。

 まだトルコにいた頃、セルチュクの幹線道路をエフェスに向かって歩いていると、後ろからバイクの二人乗りがブルルと近づいてきて、例のごとく「Where are you from?」と尋ねてくる。トルコではどこにいっても観光客とみるや必ずこうして声を掛けるのが習慣になっているようで「ジャパン? おおそうか、ようこそトルコへ!」と言い残して去っていく者もあれば、気前のいい日本人相手に物を売り付けようという魂胆の者までいろいろだが、このバイクの若者は後者だった。
 二人はバイクを降りて「ちょっと見せたいモノがあるから座って話そう」と近くのベンチを指さした。もちろんうさん臭さを感じてはいたが、真っ昼間から路上で金品を盗まれるようなことはないだろうと、素直に応じて二人のうちひとりが座った横に腰掛けた。
 彼はポケットから小さなティッシュの包みを取り出し、目の前に広げてみせた。
「これね、実はエフェスの遺跡から掘り出された古代ローマのコインで、とても値打ちのあるモノなんだ。うちのオヤジが発掘の仕事をしていて、少し分けてもらったんだよ」
 彼の手のティッシュの上には、古めかしいコインが5〜6枚乗っかっていた。それを一枚一枚説明しながら僕の掌に乗せていく。
「これはディオニソスの横顔が彫られていて、こっちはほら、アルテミス。なかなか手に入らないシロモノだよ」
 ははあなるほどそれはそれはと、いかにも興味深げなあいづちを挟みながら聞いていたが、僕はそういうモノに興味がなく、むしろやつらはこれをいくらで売り付けようとしているかに関心があった。
「今はクルバン・バイラムの真っ最中だから、これを特別に20リラでどう?」
 来なすった。買う気はさらさらなかったが、値段によっては旅の思い出として乗ってもいいかという気になった。
「no,no,20は高いね。1枚1リラ、計6リラなら買うよ」
「おいおいそりゃあんまりだ。どうまけても15だよ」というので「じゃあいらいない」と立ち去ろうとすると、
「ちょっと待った、わかった、じゃあ12でどう?」
「だめ、10だね」
 彼はちらっと相棒の方に目をやったが、しかたがない、と両手を広げている姿を確認して、
「OK。特別君にだけだ」と降参のようす。
 僕は財布から10リラ札を出して渡した。彼は僕の手にティッシュごと6枚のコインをしっかり握らせて、もう一人とともにバイクにまたがり、
「Have a nice trip!」
といってブルルと去っていった。
 ホテルに戻ってテーブルに並べてまじまじと眺めた。サビや砂がへばり付いているせいか、普通のコインよりも分厚い気がする。ギリシャの神々のプロフィールや古い文字が、そのサビの下にしっかり刻まれていて、丁寧に磨けばもっと鮮明になりそうだ。でも僕にはそういう趣味はないので、日本に帰って誰か好きそうな人のお土産にしようと思いつつなんとなく眺めていると、1枚少ないことに気づく。
「あれ、確か6枚あったはずだけどな」
 どう数えても5枚しかない。テーブルの上の他のもの全部どかしたり、いろいろひっくり返したりしたが、やっぱり1枚見つからない。あのときティッシュごとポケットに6枚入れて、ちゃんと持って帰ってきたはずだし。ズボンのポケットをまさぐってみたが、ない。
 まあそのうち見つかるだろう、たとえダメでも5枚もあればお土産にはなるだろうと、ティッシュに包み直してテーブルの上に置いた。
 思えばこうして路上で場当り的な買い物なんかしたのは初めてで、そうなるとあのコインがどれくらいの値打ちがあるのか気になり始めた。ひょっとしたらろくでもないガラクタを掴まされた、ということもないではないし。
 翌日、ホテルのオヤジにそれを確認しようと思って階下に降り、ポケットからティッシュごと取り出して受付のカウンターに広げてみせた。
「あのすみません、このコイン、昨日そこの通りで・・・」
 尋ねようとしたその瞬間、目を疑った。さらに1枚減り今度は4枚になっている。こんなことってあるだろうか。事の次第を説明してカウンターの前で目を丸くしている僕にオヤジは、
「そんな、手品じゃないんだし。でもこのコインはたいしたもんじゃないよ。このセルチュクならそこら中にあるしね。売り物になったとしてせいぜい10枚で5リラだな。そういうのを売り付ける連中は多いからね。気を付けなさい」
 もうその時点でボラれたことなんかどうでもよくなっていた。また落としたりしちゃいけないと思って確かに僕は、テーブルの上の昨日のままのティッシュの包みをそのままポケットにねじ込んで部屋から降りてきたのだ。「ポケットの中にはビスケットがひとつ、ポーンと叩けばビスケットはふたつ」という歌があったが、その逆なのだ。
 部屋に戻ってう〜んと考え込む。握ったティッシュを広げると確かに4枚。机の上を片付け、その包みだけにして一晩置いた。
 翌日はチェックアウトしてイスタンブールに向かう日。荷物を全部リュックに詰め直して出発の準備をする。机の上の包みの中身が気になったが、敢えて開かずにそのまま慎重にズボンのポケットに入れてバスターミナルに向かった。
 バスを待っている間も車中でも、無意識に右手がポケットの上に伸びる。固いごつっとした感触はちゃんとある。でもポケットの中に手を突っ込むのはなんとなく憚られた。

 翌朝イスタンブールに着いて、たまたまバスで一緒になった韓国人の青年とホテルを探す。彼は24歳の学生で、トルコには3週間ほどいるという。手頃なホテルを見つけたが、学生の彼には値段が高いらしく「僕はもう少し安いところを探すよ」といって歩いていった。「じゃあ気を付けて」と投げ返し、フロントで手続きを済ませ、部屋に落ち着いた。
 で、ポケットから恐る恐るティッシュの包みを出し、開いてみる。4枚のまま。あれっ、という驚きと、一方で安心感と、なんだかよく分からなくなった。ひょっとしたらのズボンのポケットに秘密があるのではと、この2週間履きっぱなしのジーンズを脱いで裏返したりひっくり返したりバタバタはたいてみたり、ポケットも入念に調べたが、何も出ないし何も起こらない。う〜ん、どうしたものか。セルチュクから離れたせいで魔法が効かなくなったのかな?なんてことを思いつつ、いつものように荷物をバックパックから取り出していった。
 スーツケースと違ってバックパックの場合、いったん荷物を出すと詰め直すときに手間がかかる。たいした量でもないのでそれほど時間はかからないが、あまり使わないもの(この先のガイドブック、予備のセーターなど)は底辺に入れっぱなしだ。イスタンブールには長居しようと思っていたので、このコインもそいつらと一緒にバックパックの底に押し込んでおくことにした。やっぱり気味が悪いし、でも捨てるのも気が引けるし。

 風邪を引いたのと雨模様のせいで数日部屋にこもったが、体調の回復と好天が重なったので、6日目以降にやっと街を歩く。
 荘厳なアヤソフィアや地下宮殿、トプカプ宮殿、グランドバザールなど。この日以降も雨降りや風の強い日は部屋でじっとしていたので、主な観光名所を回るのに数日かかった。

 10日目ころだった。
「あの〜、すみません」
 この街を歩いていると、ジュータン屋や土産物屋の客引きが慣れた日本語で話しかけてくることが多く、またかと思って振り返ると、熊のような男性がドスンと立っている。黒っぽいナイロンジャージの上下に、ヒゲづらの大きな男。たったいま山から降りてきましたというような、本当に熊みたい。
「あの、伊藤キムさんですよね?」
「あ、そうですよ」
「ああやっぱり! いやあ驚きました。こんなところでキムさんにお会いできるなんて。あ、僕のこと覚えてます?」
 思い出せず、困る。でも、紛れもない日本人だった。
「そうでしょうねだってたくさんの人に会われてるでしょうから以前キムさんがドイツのシュツットガルトへ公演にいらした時に終演後ロビーに出て来られたキムさんに挨拶した者ですよあの時の舞台ホントによかったです今でもはっきり覚えてるくらいですからあっ僕はあれからスカンジナビアに移ってそこで知り合った人にくっついてきてもうここに2年ほどいるんですキムさんは今回やっぱり公演ですか?」
 熊なのによくしゃべる早口。
 ドイツは何度も行っているが、シュツットガルトで舞台をやってはいない。はて、この熊、誰?
「いや、いま個人的な旅の途中で、ここへは10日ほど前に着いたんです」
「へえそうなんですか。う〜んキムさんの踊りが見られないのはちょっと残念だけど、でもこんなところでお会いできたのはめっちゃ嬉しいですよ。もしよかったらイスタンブール、案内しましょうか?」
 めっちゃ、という形容は関西人がよく使う。そういえば最近の日本ではエサを求めて熊が山から下りてくるらしいが、関西方面にもいたか。
 イスタンブールには、同じ日本人だと安心させて仲良くなり、自分の関係するジュータン屋に連れていって高いジュータンを無理矢理買わせる悪い日本人がいる、とガイドブックにあったが、人を振り切ることにかけてはかなりの自信があるので(ここを読んで、大きくうなずく人が多かろう)、いざとなればプイッと立ち去ればいい。彼に案内をお願いすることにした。
「でもいきなりだとキムさんにもご迷惑でしょうし、今日は僕ちょっと都合が悪いんで、明日の午後はいかがですか?」
 早口で押しまくってくる。こういうとき僕は、相手がお調子者に見えて普段なら警戒するが、どうせこっちも気ままな旅行中だし、相手は日本人だし、ということで同意した。
 どこへ行きたいかという彼の問いに、スルタン・アフメット・ジャミィへはまだ行っていない、と告げると、翌日の1時にその前で待ち合わせることになった。ジャミイなら入場料もタダで、彼にも迷惑がかからない。
 ところでまだ名前を聞いていないことに気づき、尋ねた。
「あ、大隈です、大隈竜太っていいます」
 関西じゃなく早稲田のクマだった。しかも竜のしっぽ付き。珍しい動物がいるもんだ。

 イスタンブールは「アジアとヨーロッパの架け橋」と呼ばれており、車でさっと渡れてしまうほどのボスポラス海峡を挟んで街が展開している。だからヨーロッパ側とアジア側の、文字通りの架け橋なのだ。となれば多くの旅行者がここを訪れるわけで、彼のような得体の知れない人物も珍しくないのだろう。
 かつてコンスタンティノープルと呼ばれた頃のローマ帝国の時代から、ビザンツ帝国、オスマントルコなど、合わせて122人の権力者が1600年に渡って統治したというこの街は、数え切れないほど多くの人に攻め込まれ、蹂躙され、踏み固められてきた。そういう歴史の深さと神秘性が人を引き付け、いまでは合法的蹂躙にかき立てているのかもしれない。
 坂の多い起伏に富んだ街並みは、車がガンガン走る大きな通りも少なく、小さな路地が縦横にめぐらされ、トラムも走り、僕好みの風情のあるところだ。レストランや土産物屋の客引きが、獲物を狙うがごとく通りに立っているのがちょっとうっとうしいが、気取ったところがなく人間臭くて、それもまた魅力に感じる。

 翌日、約束の時間にジャミイの前にいくと、昨日と同じ格好の彼がすでにいた。
「あ、どうも。毎日寒いですよね。昨日はよく眠れましたか?」
「うん眠れましたよ。ワインも飲んだしね」
 はははと笑う彼に従ってジャミィの門をくぐる。
 スルタン・アフメット・ジャミィはイスタンブールの象徴的な建物で、ドームの外壁が青みがかっているので通称ブルーモスクとよばれている。
「僕はストックホルムから船や列車を乗り継いでここにたどり着いたんですけど、列車から最初に目に入ったのがこのブルーモスクでした。ああ、アジアに来たんだなって感じで、とても印象的でしたね」
 ヨーロッパに長くいれば、イスラムを思い起こさせるこの丸いドームは、彼を何かしらのアジア的郷愁に誘うものがあったのだろう。
 四方を回廊に囲まれた広場を抜け建物の中に入ると、まず目に飛び込んできたのは、天井から吊り下げられた無数のランプ。床から3mほどの高さに、円形に並んだ光の輪が幾重にも灯っている。ドームの高さは20〜30mくらいだろうか。高くそびえた空間に静かに灯る光りが、ただ美しい。壁にはめ込まれた華やかなステンドグラスやタイルがその空間を包んでいる。
「お祈りの時間なら、コーランが唱えられて、いい雰囲気になるんだろうねぇ」
 僕がそういうと、
「そうですね。でもお祈りの時間はイスラム教徒以外はジャミィに入れないんですよ」
 こんなに文明化されているのに、そこだけはかたくなに守っているようだ。まるで、この美しさはおまえたちには味わわせない、とでもいうように。
「でも僕はここに来るのが好きで、お祈りの時間だけ外で待ちながらコーランに耳をすまして、終わったらすぐに入るんです。そうすると耳にコーラン残ってますから、それでなんとなく雰囲気を堪能した気分になるんですよね」
 なるほど、そういう手があったか。この男、見かけによらずなかなかロマンチストではないか。
「僕はイスラム教徒じゃないけど、列車の中の僕の目をこの街で最初に引き付けたのがこのジャミイですから、やっぱり戻って来てしまうんでしょうね」
 そういう彼の横顔は、よく見るとなんとなく憂いをおびている。髭面で温かそうな目、ふっくらとしたほお。一見柔和で平和な面持ちだが、心に何か重いものを抱えていて、それをあの早口で押し隠そうとしているように感じる。彼が早口でしゃべればしゃべるほど、僕は逆に憂いを聞いてしまうのだ。彼がどんな人物かも、どこで生まれたのかも、詳しくは知らないが、日本を離れ、長年あちこちを廻ってきたからには、それなりの困難や苦しみがあっただろう。あてもなくふらふらする旅行者は、根無し草だとか、落伍者だとか、なにかと悪い形容を与えられがちだが、そういう状況に至るには何か理由があるのだと思う。他人には分からない禍根、あるいは本人も気づかない心の闇や衝動。そういうものが彼の、この横顔に表われている。ただの熊ではなさそうだ。 スルタン・アフメット・ジャミィを出て、しばらく旧市街を歩く。歩きながら僕は自分の旅のことを問わず語りに説明した。
「へぇっ、そうだったんですか。じゃあかなりの長旅ですね。でもキムさんぐらいの人が、なんでまた?」
「う〜んまぁ、いろいろあってね」
「ありゃ、なんか意味シンですね」
 キムさんぐらい、というフレーズの意味を僕は痛いほどよく理解している。でも、キムさんくらいでもそうでなくても、いま僕に起こっていることは誰にでも起こり得ることで、普通の人には備わっているそれと共存できるだけの耐性が僕にはなかった、というだけの話だ。僕に付き合ってくれている彼にはキチンと説明しなくてはと思いつつ、しなかった。彼もそれ以上突っ込んではこなかった。
 「どこかでお茶でも飲みましょうか?」
 という彼の提案に救われた気がした。近くのロカンタ(大衆食堂)に入って彼はチャイを、僕はコーヒーを注文する。
「チャイは、苦手なんですか?」
「いやいやそんなことは。ただ旅に出てから、なんとなくコーヒー党になってね」
 ここ最近のコーヒー好きは、自分でも驚くぐらい。こんなに毎日飲んでいるのは、生まれてはじめてだ。朝はまずコーヒーがないと目が覚めない、なんてことをそのうち言い出すかも。
「やっぱりここは観光客が多いね。西洋人もいるし、韓国人もたくさんだし」
「そうですね。夏のシーズンはやっぱり日本人も多いですよ」
「トルコ人はみんなとても親切だけど、外からの観光客が多いっていう下地があるのかな? それとも元々そういう民族?」
「ん〜、どうなんでしょうね。よくわからないけど、両方じゃないですか。でもそのせいでというか、日本から来た若い女の子なんか、結構大変みたいですよ」
「ははぁ、トルコ人の男でしょ?」
「そうそう」
 若いトルコ人男性はスタイルもよく、顔もきりっと彫りが深くて、こういうのに親切にされたらどんな女性だって悪い気はしないだろう。でもなかにはとんでもない奴もいるらしい。
「僕の知ってる女の子で、泊まったホテルのオヤジに『マッサージしてあげよう』といわれて、断ると無理やり背中に下半身を押し付けられたとか、映画館で二人組に左右を挟まれていきなり手を握られたので、引っぱたいて逃げてきとか、そういう話いっぱい聞きますよ」
 女性が旅するには大変な国のようだ。
 「キムさん、アジアをずっと旅してこられて、イスタンブールはどんなふうに感じます?」
 あまりに漠然とした質問を突然ぶつけられたので、
「どうって?」
 と投げ返してしまった。
「いやただ単純に聞いてみたかったんです。ここはよく『アジアの最終地点』なんていわれてますけど、僕にはヨーロッパの他の国と大差ない気がするんですよ。英語を話す人は多いし、ヨーロッパのブランド品の店もたくさんあります。おまけに最近じゃEU加盟の動きまであって。イスラムを除けば、まんまヨーロッパだと思うんですよね」
 もちろん簡単に「イスラムを除く」ことはできない。だってこれこそがこのトルコの、トルコたるゆえんだからだ。しかし彼の言葉には、僕は躊躇なくうなずける。中国からここまでたどってくると、まるで別世界だ。ヨーロッパからたどり着いた彼も同じようなことを考えていたのかと、ちょっと親しみがわいてきて、その勢いで聞いてみた。
「ところで大隈さんは、もともとどこの出身なの?」
「あ、エスエージーエーさがです」
「は?」
 一瞬何のことか分からなかったが、すぐに気が付いた。ちょっと前に話題になった、それまでマイナーだったが、その歌のおかげで日本全国に名を轟かせた、あの地名のことだった。
 しばらく日本を遠ざかっていた人にはよくあることで、日本ではもう流行遅れになってしまった話題を、人からもらったつまらない、でも捨てられないお土産のように、後生大事に抱えていることがある。一種の浦島太郎状態だ。
「生まれはそこなんですけど、父の仕事の関係で小学生のころから福岡や東京、福井なんかに引っ越してばかりでしたね。最後は神戸でした。そんなだったから、今も放浪癖がついちゃってるんでしょうね」
「神戸は何歳のころ?」
「高校と大学の間ずっとでした。父が建築関係の仕事で、日本国中のダムとか橋の大きな建設現場を渡り歩いてまして、そういうのをずっと見てきて僕もそれに憧れて、神戸の地元の大学の建築科に入ったんですよ」
「へぇ、そうだったんだ。じゃ卒業して建築会社に?」
「いえ、4年の時、小さいけどそのころ伸び盛りだった会社から内定もらって、卒論も提出してあとは海外へ卒業旅行にでも、と思っていた時、震災に遭ったんです」
 はっとして息をのんでいる僕を察し、二人のあいだの落ち込んでいきそうな空気をもう一度引き上げるかのように彼は続ける。
「僕の家は潰れました。両親は一階に寝ていてだめだったんですが、二階に寝ていた僕だけ運よく助かったんです。僕、一人っ子だったんです。それで佐賀にいた親戚から、今後の面倒を見るからと佐賀に戻るよう勧められたんですけど、いまさら田舎に戻る気にもなれなくて。でも家族はいなくなっちゃったし、お金もないし、若い男一人用の仮設住宅なんてないし。決まっていた会社に社宅でもあればよかったんですけど、小さな会社でしたから。内定を辞退して、仕方なく佐賀に戻りました」
「そうだったんだ・・・大変だったね」
「建築家になろうと思ってたのに、建物にその夢を潰されて、なんか皮肉ですよね」
 半分笑っているが、笑ってこれを言えるまでにはかなり長い時間を要しただろう。
「でもね、佐賀に戻ったのは別の意図もあったんですよ。家族もいないし、日本にいてもどうせ落ち込むばかりだろうし、いっそ海外に出てしまおうとね。それで佐賀に戻って親戚の世話になりながら、お金を貯めようと」
 だんだん話の核心に近づいてきたようだ。
「叔父さんの紹介で、伊万里の焼き物の補修をする工房でバイトしました。大学でよく建築模型を作ってましたから、それが役に立って。これでも手先は器用なんですよ」
「へぇ、そんな仕事があるんだ。意外なところに助け船があったんだね。どれくらい稼いだの?」
「そこで2年かけて100万貯めました。これだけあればそろそろいいかなと思って、そこを辞めて、昔から好きだったスペインに行くことにしました」
「でも、そういう職人さんの職場だと、なかなか出してくれなかったんじゃ?」
「普通ならそうですね。でもそこの社長は僕の境遇を理解してくれて、それで雇ってくれたんです。だから辞める時も大目に見てくれました」
 まさに捨てる神あれば拾う神ありだ。ガウディに惚れ込んでいたという彼はスペインで2年ほど過ごした。
「生活費はどうしてたの?」
「貯金は1年もたたないうちに食いつぶして、その後は建設現場とか、土産物屋の手伝いとか、バーテンとか、もう何でもやりました。もちろん市民権なんかないから、全部違法労働ですけどね。で、そのうちだんだんスペインにも飽きてきて、ドイツに行ったんです」
 やっときた。僕は、昨日の不可解だった例の話を切り出してみた。
「ねぇ、昨日シュツットガルトで僕の舞台をみたって言ってたけど、あれホント?」
「ホントですよ! だって僕、それまで踊りの公演なんか行ったこともなかったんですけど、キムさんの名前の入ったポスターを街で偶然見かけて、あっと思ったんですよ」「へ?」
「実は僕、震災前にキムさんのことは知ってたんですよ」
「えっ?」
「うちの大学はデザインなんかの芸術系の科もあって、学校の掲示板にキムさんの公演のチラシが貼ってあったんです」
 そうだった、と思わず膝を打った。95年1月。その頃僕はドイツ在住のミゼール花岡というダンサーとコンビを組み、ヨーロッパや日本国内で公演を打っていて、兵庫の伊丹でもその年の3月に公演する予定だった。それが震災で中止になってしまった。劇場そのものはあまり被害はなかったらしいが、復興の真っ最中でもあり、客の足も見込めず、やむなく中止せざるをえなかったのだ。だがチラシだけは刷られていて、彼はそれを見たのだ。
「ああっ、そうだったのか! いやぁすごい巡り合わせだねぇ」
 と驚きはしたが、僕はシュツットガルトには行っていない。その謎はまだ解けていない。
「でも、他の場所の間違いじゃない? 99とか2000年頃の話でしょ? ハンブルグとか、ハノーバーとか・・・シュツットガルトなんか行った覚えないんだけどなぁ」
「いえ、間違いなくシュツットガルトです。その頃はそこに住んでて、アディダスの本社がそこにあって、近くをしょっちゅう通ってましたから」
「そう。変だなぁ。どんな舞台だった?」
「あー、まだ信用してませんね。えっーと、最初真っ暗で、だんだん舞台の奥の方に人の姿が見えてきて、そしたら赤い光が当たって、その中をキムさんがゆっくり横切って・・・音楽が激しくなると、男の人達がなんかこう、体をよじるように激しくなって。一番最後はキムさんのソロでした。当たってますよね?」
 ご名答。『生きたまま・・・』だ。
「ああいう感じのダンスって初めてだったんですけど、なんか素直に引き込まれました。理解できた、っていうんじゃないけど、素人の僕でも親しみが持てたんですよね。」
「そういってくれると嬉しいよ。でもなぁ・・・」
 いぶかしがっている僕を遮るように彼は言った。
「神戸で最初にチラシを見たときは、なんじゃこの人!って思いましたよ。すごいインパクトだった。だからかなり過激なことをやるんじゃないかって、内心怖々だったんですけど、舞台を見て、あ、普通の人なんだって思いました」
 これはいろんな人からよく言われることだ。この見かけのために、僕は得もしているし損もしているだろう。
ここまで持ち上げられると、シュツットガルトだろうがどこだろうが、もうどうでもよくなってきた。所詮は旅の出会いだし。
 彼はその後の道程を話し、僕は踊りを始めたきっかけなんかを話し、そろそろ店を出ようかと席を立った。ふたり分を払おうとする彼を制して、
「いやいや、ここは僕に払わせて。いろいろ案内もしてもらったし」
 案内なんてジャミィくらいじゃないですか、という彼を聞き流し、僕は財布から5リラ札を取り出したが、あいにく小銭を切らしていた。それを見て彼が、
「細かいのなら少しはありますよ」
 とレジカウンターの上に小銭をジャラッと撒いた。こちらが出すと言っておきながら、相手の財布を開けさせるのは、なんとも気まずいものだ。
 が、カウンターにころがった小銭の群れを見て僕は愕然とした。そこにあの、なくしたコインが、いやあれと同じようなコインが、しかも2枚、混ざっていたのだ。そんなことはすっかり忘れていた僕の脳みそが、一気にセルチュクのバイクの二人の記憶を呼び戻した。
 散らばったコインの中から彼は正確に不足分のリラだけ取り出し、店員に渡した。
 悪いねと彼に謝ったあと、店員に5リラ札を渡しながらも、頭の中であの2枚のコインがぐるぐる追いかけっこをしている。そのことを彼に尋ねる勇気もなかった。シュツットガルトの後でさらに追い打ちをかけられたのだ。
 夕方5時過ぎ、外はもう日が落ちかけ、闇がすぐそこに迫っていた。
「今日はありがとうございました。まだイスタンブールにいらっしゃるんなら、いつでも連絡ください」
 ポケットからメモを取り出してモバイルの番号をさっと書き、僕に手渡す。
「こちらこそ。元気でね。またいつか会えるといいね」
 そうは言ったものの、実際会うことはないだろう。内心動転している、僕の精一杯のあいさつだった。
 いや、あれは偶然だったんだ。あんなコインはどこにでもある。セルチュクのホテルのおやじも言っていたではないか。じゃあシュツットガルトの件は? う〜んあれは説明がつかない。そこに彼が住んでいたのも、僕の作品を観たのも確かなようだ。いや、でも彼はどこかで取り違えたんだろう。異国で不安定に生活していれば、そういう勘違いもあるはずだ。
 ホテルに戻った。バックパックの底のあれを取り出すか、やめるか? なんだかジタバタするのが面倒になって、そのまま置いた。

 ローマに飛ぶ前日、最後に礼を言おうと彼に電話した。
「へぇ、次はローマですか。いよいよ本物のヨーロッパですね。じゃ明日、トラム乗り場まで見送りに行きますよ」
 この申し出は僕を喜ばせつつも、少し不安にもさせた。
 イスタンブールの空港へはトラムと地下鉄を乗り継いで行く。ホテルをチェックアウトしてスルタン・アフメットの停車場にいくと、またいつもの格好で彼が立っていた。そして僕の目の前にスーパーの袋を差し出した。
「これ、おにぎりです。彼女に握ってもらったんですよ。日本の米じゃないけど、まぁまぁいけますよ」
 スウェーデンで知り合ったトルコ人の彼女と住んでいるというのは先日聞いていた。中をのぞくと、ラップに包まれた白い固まりがふたつ、まだ温かかった。旅先でもらう土産にはいろいろあるが、こういうのが一番ありがたい。その土地の工芸品なんかもらっても重い荷物にかさばるだけだし。彼はさすが旅馴れていて、その辺をちゃんと心得ている。
「いやぁ助かるよ。ありがとね」
 彼の親切に押されてやはりコインのことは切り出せず、おにぎりの礼を言うのがやっとだった。
 トラムが来た。乗り込んで、窓の向こうで手を振る彼に僕も振り返す。いよいよ出発だ。
 空港に着いてチェックインを済ませ、搭乗までの時間をベンチに座っておにぎりで過ごす。中身はふたつとも梅干しだった。なぜか笑いが込み上げてきた。彼の言葉通り、なかなかの味。久しぶりのおにぎりだからよけいに感じ入ってしまった。こんな単純な食べ物が、こんなにも人の心を落ち着かせてくれる。熊の恋人はどんな手をしているんだろう?
 
 結局トルコには35日間の滞在だった。もちろんそのほとんどがイスタンブール、だらだらと軽く沈没した。
 そしてイスタンブールの熊はやはりただの熊ではなかった。得体の知れない荷物のヒモをほどくように現れたその生い立ちにはやはり、あの横顔のにじませる憂いの根っこがあった。SAGAに始まり、傷を負いながら、日本とヨーロッパのあちこちで複雑に絡まり、手足を伸ばしてきたその根は、どこでどんな花を咲かせるのだろう? どんなに華やかに開いても、また摘み取られてしまうかもしれない。でもそれはそれ、また別の枝から実を結べばいいのだ。
 僕自身、旅をしていると、気に食わないことや予定外の事態に出会う。でもそれを嘆き、腹を立てるのはムダなエネルギーの消費なのだ。それをそれとして受け止め、残された方法で最善を探すしかないのだと、最近は落ち着いて考えられるようになった気がする。
 旅ってホントにいろんな出会いがあるもんだなと、あらためて思う。苦しいことつらいこと、不思議なこと楽しいこと。人間を含めいろんなことと出会うのは、未知の刺激に満ちている。
 空腹を満たしてホッとし、カラの袋をごみ箱に捨てようとベンチを立つと、手に提げた袋に、まだ手ごたえがある。何だろうと思って見ると、袋の底に小さな紙の包みが残っていた。おにぎりにさらにプラスアルファがあったのかと宝探しをしている気分になった。でも、包みを開けて声を上げそうになってしまった。
 コインが2枚。そう、あの時、ロカンタのカウンターで見た、彼の財布から出てきた、いや、セルチュクで行方不明になった、あの2枚のコイン。紙の包みの裏にはこんなメモがあった。

「お忘れ物です。食べられませんよ」

 トルコは神秘の国だ。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
『世界が展示室』
「内なる闘い」

「フレンチはどうした? 食べないのか?」
 値の張る日本料理店の前で、入ろうかどうか迷っている僕に聞こえてきたのは、内なる声Aだった。
内なる声B
「あぁん? フレンチだぁ? そんなもの食ってられっか。おいらは和が食いてぇんだよ」
内なる声A
「せっかくはるばるグルメの国まで来たというのに、君にはその土地の食を楽しもうという旅情のかけらもないのかね?」
内なる声B
「旅情だかドジョウだか知らねぇけどよ、日本を出てからもう4カ月だぜ? こっちは和食に飢えてんだ。ガタガタいってっとハッ倒すぞこのやろう」
内なる声A
「ああ嘆かわしい。私はここでの食事を前から楽しみにしていたのだ。まずプロヴァンスの白ワイン。スモークサーモンの前菜に、少なめのブイヤベース。メインはムール貝のワイン蒸し、そして仕上げはカマンベールだ。ああこうして頭に並べただけでもよだれが出そうだ」
内なる声B
「おうおうおう、さっきからブツブツブツブツ、そんなにハレンチじゃなかったフレンチが食いたきゃよ、今度ひとりで食いにくりゃいいじゃねぇか。え? おグルメさんよ」
内なる声A
「なにを言うか。そもそも君と私は一心同体なんだから、別行動ができないことくらい君にもわかるだろう?」
内なる声B
「あ〜これだからユーモアのわからねぇインテリはやだね。こちとら江戸っ子・・じゃねぇけどよ、しゃべりだけは江戸っ子だけどよ、諧謔ってものをわかってほしいなぁ、わかる? カイギャク」
内なる声A
「ほぉ、君の口からそういう言葉が出るとはね。いつのまに覚えたんだ? では諧謔ついでにいおう。古人はいい言葉を残したものだ。『その土地を知るにはその土地を食せよ』と。いつも日本で日本のものを食べている私たちだからこそ、旅に出たならその土地のものを食べるべきじゃないのかね? この旅にはそういう意味も含まれているはずだが?」
内なる声B
「古人だか土人だか知らねぇけど、そりゃおめぇ、旅に出たんだから食いもんだって千差万別いろいろあらぁな。んなこたぁ百も承知よ。けどよ、モノには限度ってもんがあるだろが。ニッポン人にゃニッポン人の舌の郷愁があるってことよ」
内なる声A
「まぁたしかにそれも分からないではない。だがこのプロヴァンスだけは別だ。暖かな太陽に見守られた芳醇なワイン、地中海の恵みを受けた新鮮な魚介、これを食べない法があろうか!」
内なる声B
「ったくいちいちゴタクを並べやがって。そうそう毛唐の食いもんばっか食ってられっか。つべこべいってっとハッ倒すぞこのやろう!」
内なる声A
「毛唐だなんて、今ではもうほとんど差別用語だ。そういう心構えでいるからいつまでたっても外国から変人の国扱いされるのだ。それに君の場合は諧謔というよりカイギャグだな」
内なる声B
「お、うまい! うまく落ちたところでさっそく日本酒といこう」
内なる声A
「そうはいくか。まだ決着はついていない。ああ、私たちの主人はなんでまたこんな野蛮人と私を一緒にしたのだろう」
内なる声B
「ケッ、そいつぁこっちのセリフでぃ!」

「あんのぉ、なんでもええがらはやぐ決めでげれ。あっすぃ、もうさっぎがらハラがへっでハラがへっで、もう目がまわりそうですズラ」
 ふたりの会話をだまって聞いていて、しびれを切らして口を開いたのは、内なる声Cだった。


「ヨーロッパ右往左往」

 さて18年前、ボルセーナでのワークショップが終わり、その後のローマで何が起こったか?
 「古川あんずとダンスバターTOKIO」には当時4〜5人のメンバーがいて、僕を含めたそのうちの3人が、あんずのイタリアでのワークショップ公演に同行することになった。踊り始めてまだ2年目の僕には、海外のダンサーたちと交わり踊れる貴重な機会だった。
 ボルセーナでのワークショップ公演を無事終え、あんずはヨーロッパの他の街での仕事に移動し、僕たち3人はローマで数日観光をすることにした。一緒だったのはどちらも女性。ロー子さんにマー子さんとしておこう。
 当時僕はロー子さんと恋人同士で、いや正確にはボルセーナの日々でそういう関係になったのだが、3人とも仲は良く、ローマでも3人でひと部屋を借りた。
 ところがローマに着いて翌日くらいにマー子さんが行方不明になった。3人で街を観光し、夕食のあと僕とロー子さんは「もう少し街を歩いてみる」というマー子さんを残してホテルに戻ったが、深夜になっても彼女は戻らない。翌朝になっても。
 実はこの日、僕ひとりが帰国することになっていた。東京に残ったメンバーと次のリハが始まるので、帰らないわけにはいかない。それには参加しないロー子マー子を残して。ロー子さんとの別れはつらかったが、それ以上にマー子さんが気掛かりだった。
「いったいどこに行っちゃったんだろう?」
「このままローマの闇に埋もれて、そのうち香港に売られちゃったりして」
 ローマからわざわざはるか遠くの香港なんかに売らなくてもいいのだが、「香港に売られる」というのはなんだか裏びれた危険な響きがあって、この状況にぴったりだった。そんなアホな会話をしている場合ではなかったのだが。
「わたしひとりで探してみるから、先に帰ってて」
 というロー子さんにあとを託し、列車に乗った。
 飛行機のチケットは行きも帰りもフランクフルトからになっていて、ローマからフランクフルトまでの約1000?(青森〜福岡くらい)を夜行などを乗り継いでいかねばならなかった。
 ローマを夜遅く出て深夜、列車がボローニャの駅に停まったままなかなか動かないので、近くにいた乗客に聞くと「ストライキらしい」という。おいおい冗談じゃない、こっちは明日の夜(正確には今晩)のフランクフルト発に乗らなくちゃいけないんだと慌てたが、発車する気配もないので「飛行機なら間に合うかもよ」というその乗客の言葉に押されるように、駅でタクシーを拾って空港に向かった。今ではずいぶん改善されたらしいが、イタリアの鉄道は遅延とストで有名で、いったんストに入ると何時間も動かないのだ。
 深夜(2時くらいだったと思う)にもかかわらず空港は開いており、でもカウンターは終了しているので、待合室のベンチで持っていた寝袋にくるまって夜を明かした。
 朝になってチケットオフィスが開き、すぐにフランクフルト行きのチケットを買って乗った。これで夜にはじゅうぶん間に合う。
 フランクフルト空港で成田行きのチェックインを済ませ、荷物を預け出国審査を通り、ゲートの前で搭乗の案内を待つばかりとなった。ベンチにすわってタバコをふかし始めたとき(当時は喫煙していた。これもボルセーナで覚えた)、急に不安になった。
「このまま日本に帰れば、俺はひとでなしになってしまう」
 行方不明のままのマー子さん、ひとりで探させることになったロー子さん。このまま本当に見つからなかったら、香港に売られていったら・・・ 
 よしっ!と立ち上がった。タバコを消し、ゲート前にいる航空会社の係員に事情を説明し、小さいリュックを抱えてゲートから走り出て、出国審査を逆戻り、すでに預けたはずの、飛行機に載せる直前だった大きいリュックを取り戻し、空港を出て鉄道駅につなぐ電車に乗り、フランクフルト駅に着いてローマまでの切符を買い、もういちど1000?の青森〜福岡を乗り継いで、翌日ローマに舞い戻った。
「まだ見つかってないの・・でも帰ってきてくれてうれしい」
 ロー子さんの顔が曇ったり明るんだりした。マー子さんがいまだに見つからないのは気が重かったが、関係が始まったばかりの彼女と一緒にいられるのは僕も文句なくうれしかった。 
 翌日、ふたりで街を探し歩き、途中で彼女だけ先に返してひとりで探し続けた。結局見つからず宿に戻ると、マー子さん、帰ってきていた。ロー子さんによれば帰還後の第一声は 
「ああ、しばらくだね」
 だったそうだ。あの日彼女は、近くのバーで女の扱いのうまいイタリア男に声を掛けられ、そのまま彼の家までついて行っていままで過ごしたが、つまらなくなって帰ってきたのだという。四日も五日も姿をくらましておいて「しばらくだね」はないが、僕とロー子さんの仲を気遣ってというか、自分だけ疎外された気がしてすねてというか、3週間のワークショップを終えた解放感というか、まあいろいろあっての行動だったのだろう。ともかく無事でよかった。香港に売られずにすんで。
 東京で僕の帰りを待っていたメンバーからは文句をいわれ、ボローニャからわざわざ飛行機まで使ったけど、フランクフルトから引き返してよかったと思っている。あのとき本当に僕は「ひとでなしになってしまう」と思った。居ても立ってもいられなくなる、というのはあれをいうのだろう。それくらい、心がぞっと騒いだのだ。ローマの街やボルセーナの記憶があまりないのは、この事件が全部吹き飛ばしてしまったからかもしれない。
 どうも僕は平時ではなく有事向きのようだ。「非常事態」とか「絶体絶命のピンチ」なんかに遭遇すると、なぜか血が騒ぐのである。ワクワクするのである。楽しくてしょうがないのである。
  若気のいたりというか、昔はよくこういう大胆をやったものだ。今の僕にはとても考えられないが。


「響きの意味」

 モスクでもそうだったが、あちこちで教会に入るとやはり厳粛な気分になる。いちいち名前を気にせずに入るので、ナンチャラ教会はこうでカンチャラ聖堂はああだなどと解説はできないが、要約するとそこにあるのは、絵画に姿を借りたメッセージ、言葉、そして響きだ。言葉も教義もわからない僕には、特にこの響きに打たれる。宗教施設というのはたいていが大きく造られていて、それは威厳を示すためであろうが、でも僕にはこの響きを聞かせるためのように思える。
 宗教の教義には、象徴的な逸話やたとえ話が多く、それを理解するにはその向こうにある真意を探らねばならない。大きな空間で言葉が発せられると、それが終わっても響きが延々と残り、余韻が空間を満たす。彗星のしっぽがながながと続くように。それに耳をすまし感じることで、一を聞いて十を知るがごとく、人は天からのメッセージを理解するのだと思う。
 もし教会が響きのない小さな空間であったとしたら、世界は大きく違っていたかもしれない。


「ボンベイの遺跡」

 その日は曇りで、風も強かった。初夏のようなローマの日差しは空のかなたに隠れてしまったようで、寒風の舞上げる灰にまみれて歩くしかなかった。
 西暦79年、休火山ヴェスヴィオの大噴火でこの町は灰にうずもれ、2万人の住民のほとんどが6〜7mの灰の下敷きになった。1748年に発掘が始められるまでずっと忘れ去られていたという。
 1700年もの灰の抑圧が取り払われた町には、大きな石の敷き詰まった通りが縦横に走っている。観光客の数も多く、ポンペイ市街では見ない日本人の姿もあった。「死に場所」が人を引き付けるというのも皮肉に満ちているが、墓参りをはじめ、事故現場に烏合するやじ馬なんかを思えば、納得がいく。来るべき自分の未来の姿を、なんとかして見届け、できるだけ親しんでおいて、その時に備えるのである。
 でも歩きながら僕がここで見たのは、屋根のある壁と、屋根のない壁と、そこに切り取られた窓と、そこから忍び込む光と、その後ろに控える闇だった。こういうものが揃えば、当然、空間が生まれるわけで(揃わなくても最初からあるといえばあるが)、そういう空間に僕はいちいち感嘆した。今では崩れ落ちてしまった壁画や、魚の鱗のような土の壁に、なめるように光が落ちる。その隣に、暖かく包むように闇がおとなしくたたずんでいる。
 迷路のように壁が並んだエリアから目を転じ足を進めると、細かい空間が立ち入ることのできない広場に出る。灰が取り去られたあとの土に、鮮やかな緑の雑草が、俺達の出番とばかり勝ち誇ったように生え満ち、取り囲む茶色のレンガ塀とのコントラストは、それだけですでにひとつの世界だった。その外周に、杉のように背の高い松が何本も整然と植えられていた。下半分の枝は刈られ、空の白い肌にチクチク刺さるような高さにだけ葉があって、風が吹くと、まるで遠くから浜辺を見ている時のような、荒波のような音になって聞こえた。
 日差しの恋しくなる寒さだったが、灰に埋もれていた日々には決して吹くことのなかった風を受けて、少し優越感に浸る。でもヴェスヴィオ同様休火山である富士の目覚めを思うと、少し不安になる。


「きれいだね」

 ローマは日本人観光客が多い。これまでと違ってメジャーな大都市だから当然だ。特に若い女性。ブランドショップが並ぶ通りではあちこちで見かける。そして日本の女性はみんな綺麗である。突然また変なことを書くんだなと思われるかもしれないが、このところずっと(見た目の)濃い女性に目が馴れていたので、ああいうすっとした、シンプルな感じは、やはり素敵だと思う。
 でもよく見ると、ローマのような大都市だからだろうが、彼女たちはしっかり着飾り、濃いめの化粧をし、笑顔に溢れている。美しく見えて当然である。雪のゲレンデで見る女性が美しく見えるのと同じ原理だ。つまり(笑顔は本物だろうが)彼女たちは巧みに化けているのだ。
 でもここで「くそ、だまされた!」などと思ってはいけない。むしろそれを、見事な術をほめなくてはいけない。誰だって人から良く思われたいし、美しく見られたい。ファッションや化粧は、そういう願望を実現するためのシステム化された立派な「技」であって、上手な人は職人芸の世界に通じるといっていいだろう。そういう職人の技を見て「うまい!」と思ったらいい気分になるし、職人も喜ぶ。
 僕はなにも化粧を奨励するわけではない。その必要のない人もいれば、必要があってもしない人もいる。その人それぞれの考え方だ。現に僕の関わるダンサーという女性たちは、概して薄化粧が多い。汗をかくからだろうが、汗というのは自然にできる化粧みたいなもんで、汗だくで踊る人はただそれだけで美しい。まさに内側から滲み出る美しさだ。
 化かされようが、だまされようが、踊られようが、美しければいいのだ。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月14日(火)
 「味」が続く。さすがフランス、食べ物がうまい。ニースの街を歩くと、中華やタイなんかの安い大衆食堂が多くあって、ついつい入ってしまう。ウィンドーの中に並ぶお総菜を指さして、レンジでチンしてもらうだけの安食堂なのだが、なかなかの味。やっぱりアジアは美味い!
 昨日もその前も夕食はそういう所だったが、今晩は少し高めの日本料理店にした。ワインや前菜も頼んだら、なんと29ユーロ(約4000円)もかかってしまったが、やはり美味かったので、よしとする。
 フレンチはどうした? 食べないのか?
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月12日(日)
 ニースのカーニバルは、街の大通りで行われるパレードで、毎年2月中旬から下旬にかけてあり、今年は2/11〜28だ。毎週火水土日の4日間、大規模なバルーンを中心に繰り出される、要は仮装行列だ。
 どの日も昼の部夜の部があり、3つほどのプログラムをローテーションで行う。時間はどれも90分。昨日は夜、今日は昼を見た。
 海岸沿いの大通りを2〜300mに渡って海側にだけ客席を組み、反対側は立ち見。その間を、中央分離帯をはさんで次々と巡回していく。
 裸の女や動物、あるいは政治家などを模した高さ5mほどの大きくユーモラスなバルーンのハリボテ、特製のお面やおおげさな衣装をつけたパフォーマー、生バンド等々が、特製の自動車に乗ってどんどん繰り出されてくる。
 観客は観客で、売り子から買った紙吹雪を投げ合ったり、スプレー缶から吹き出る得体のしれない物体をかけ合ったり。
 とにかく派手で、あちこちで笑い声が起こる。寒い冬を吹き飛ばすためのイベントじゃないかと思うくらい。
 僕は去年の3月、愛知万博(じゃなかった愛_地球博)のプレイベントで、名古屋の広小路という目抜き通りのパレードを演出した。その準備段階でニースのパレードのビデオを見たのだが、このようないわゆる派手な演出は無理だろうと感じた。広小路は、通りの両側を大きなビルに挟まれ、それに沿って並木が続き、道の上空には信号機や道路標識をぶら下げたポールが渡され、巨大なオブジェを通すだけのスペースが確保できない。加えて警察や沿道のビルの協力が必要で、なにかと規制が多い。ニースのような道幅に余裕があり、何よりも、長年の経験の蓄積と伝統のある南仏のイベントのようにはいかなかった。
 ならばと、名古屋をはじめとした地元の主婦や子供たちを中心に据え、素人色の強い手作りイベントの方向を目指した。
 もちろんこれだけでは足りないので、美術家の椿昇氏に道路のサイズに合う巨大バルーンの製作を依頼したり、イギリスからもバルーンパフォーマーを招いたりした。
 でもイベントの中心になったのは、やはり土地の人たちで、それは「愛知での万博のためのイベント」という趣旨にもかなっていた。
 こうしてニースのパレードと見比べると、広小路のパレードには、ただ派手で面白いものだけにはない「味」があって、あらためてあの仕事に自負を感じる。なにもニースを批判しているわけではない。それぞれの「味」がある、ということだ。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月11日(土)
 9:45、定刻どおりニース着。駅前のツーリストインフォメーションでホテルを紹介してもらい、海岸に向かって南へ15分ほど歩いてチェックイン。ここは地中海に面した街だ。
 このニースへもやはり、プライベートで一度訪れている。13年くらい前だったか。「soup de poison 魚のスープ」がやたらと美味しかったという記憶がある。
 もともとここには立ち寄るつもりはなかったのだが、「ニースのカーニバル」がちょうどこの時期にあるというのをガイドブックで知って、急に思い立った。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月10日(金)
 今晩の夜行でフランスに移動することにした。でもゆううべもその前も、理由は分からないが4〜5時間しか眠れなかった。町を歩いていても体が重くだるく、ホテルはチェックアウト済みなので、教会に入って神の許しを得て長椅子に横になる。
 次は南仏のニース。まずローマに出て、そこで23:50の寝台に乗り換え、ピサ、ジェノヴァ、モナコを経由しニース着が翌9:45。
 ところで今日、トリノオリンピックが開幕しているはず。この列車もトリノを経由していたが、そこには目もくれずに地中海の街に。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月9日(木)
 18年前の記憶を辿りに、orvietoを訪ねることにした。アッシジから列車を乗り継いで約3時間、小さな田舎町オルヴィエートに着く。ワークショップの場所は丘の上の古い町並みの中だったので、そこに行く方法を探ろうと駅前に掲げられている地図を見るが、どうもおかしい。町には湖があるはずなのだが、それがない。横にある少し大きめの地図を見て、あっと思った。18年前のあそこはオルヴィエートではなく、そこからバスで40分ほどの、ボルセーナという町だったのだ。オルヴィエートはローマとの行き来で駅を利用しただけだった。急いでバスの時刻表を確認すると、ボルセーナ行きは早朝と午後の1日2本しかなく、しかも2本目は5分後。間一髪だった。
 バスに乗り込む。ウンブリアの丘をうねうねと走る。目の前に広がるのは、通りを挟んで続く枯れた並木と、なだらかなベージュの丘と、緑の牧草と、そこにたたずむ牛と、そういうものすべてを許すように注ぐ暖かな日差し。のどかでのどかで、あぁもうのどかすぎて恋に落ちてしまいそうに美しい。
 ボルセーナに着いたのが午後3時。オルヴィエートで確認した帰りの最終便が4時すぎ。1時間しかない。ここに泊まるつもりで来なかったので、今日中にアッシジに戻らねばならない。 バスを降りると、なんとなく見覚えのある風景。でも記憶はおぼろげ。少し遠くに白く光るものが見える。湖だ。5分ほど歩いて浜に。これもなんとなくで、ちゃんとは思い出せない。この湖には稽古の合間に何度か来ているはずだが。
 引き返して、高台に古い家々が迷路のようにびっしりへばり付いている中に入る。このどこかに、当時僕たちが3週間滞在した家があり、稽古場があるはずだ。もう残り30分もない。いくつかある路地のどれを昇っていけばいいか見当がつかなかったが、ひとつに当たりをつけた。早足に石畳の段々を昇り、折れ曲がった路地を巡り、息を切らしながら導かれるように歩くと、あった。扉が閉まっていて中はうかがえなかったが、30平米ほどの、山小屋のように小さな稽古場。
 そこを離れ100mほど歩くと、あった。舞台。いや正確には舞台を作ったエリア。ワークショップの締めくくりに、もちろん古川あんずの振付で、イタリア、スイス、ドイツなどから集まった受講生たちと作品にしたのだが、舞台は、入り組んだ家々の一角に、これもやはり稽古場と同じくらい小さな、屋根のない空間があって、そこに即席の舞台を組み、夜空の下で踊ったのだ。
 今となっては当時の顔ぶれも、どんな踊りだったかもほとんど覚えていないが、稽古場になった建物と舞台空間だけははっきり記憶がよみがえった。踊りのことより、食材の買出しに小さな店に行ったとか、公演の翌日、残った舞台で近所の子供が遊んでいたとか、そんなことは覚えているのだ。踊り始めてまだ2年目で、余裕も何もなかったのだろう。
 もう二度と来ることなどないと思っていたのに。しかも予定したわけじゃなく、イタリアに入ってから急に思い立って。でもここは、18年前とまったく変わっていなかった。
 アッシジの宿に戻ったのは、夜の10時を回っていた。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月8日(水)
 曇りで寒く、ちらっと外出しただけ。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006年2月7日(火)
 12世紀、放蕩な生活から改心して清貧の修道僧となり、地域の多くの貧しい人々に尽くしたといわれる聖フランチェスコの町、アッシジ。中世からそのまま引っ越してきたかのように、大小の路地が入り乱れ折れ曲がっている。町は丘の斜面にあるので坂や階段が多く、まるで大きな積木の城の中を歩いているようだ。
 ここが世界遺産に指定されているかどうかはわからないが、そう思わせるほど美しく、通りにはゴミひとつ落ちていない。巡礼者というより観光客相手の町らしく、土産物屋も多い。オフシーズンだからか、手頃な値段のレストランは少ない。イタリアのレストランには「ristorante tavernetta」という看板が多いが、「レストランで食べるななんて言われたら、よけい食べたくなってしまう」という心理を突いた、絶妙なネーミングである。それにつられて入ると、アッシジでは10ユーロ(約1400円)は取られる。でも「イタリアなんだからいいじゃないか!」という内なる声には勝てない。それに味は申し分ないのでよしとする。フランチェスコが聞いたら何と言うだろうか。
| キム今〜世界一周編2006年2月前半 | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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